震災時は
「都下は手薄になる可能性が高いので
自助・防衛が重要」

1月20日むさしのFM「武蔵野人」に出演した杉本孝司さん(FM出演時に撮影)は、昨年12月12日「武蔵野法人会」で講演。以下は出席していた松岡(むさしのFM市民の会代表)のメモより抜粋。                    
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港湾地区の防災安全対策を担当する会社に勤務。チリ地震の津波予測が2〜3mだったのが50cmだったこともあり、津波予測意識は低く、今回も50cm位だろうと皆が思った。津波警報が大津波警報に変わり10〜15mの予報。12m15mと2回襲い、引き波で仙台湾が空っぽになり深い底が見えた。高さ20mに襲われ、壁のような感じ。

責任者として皆を避難させ、津波襲来直前迄コンビナートのバルブ処置など火災予防を行い、最後に部下10名と自動車にぎゅう詰めになり80k/hで逃げるが、波に追いつかれ、後輪は持上げられ前輪だけで走った。ついに飲込まれたときは、すぐに外に出れば死ぬだろうと判断、水が車内に浸水してきてから後部ハッチを蹴破って出る。皆で電柱のてっぺんにしがみついたが、だんだん下の方から一人ずつ流されて行った。翌朝まで寄せ波、引き波に繰り返し襲われ、雪も降って寒いし怖い。8キロ以上流された家屋の瓦屋根につかまり耐えた。いったん水没した携帯電話の電池をはずし乾かしたら電源が入り助かる予感!11時間後、海上自衛隊に救助され、3時間後から遺体救助活動にあたる。

気仙沼・塩釜の石油タンクも燃えた。3日後も沿岸部はまだ水没状態で、数えきれない遺体が漂っている。死臭がひどい。ウミガメもエイもサメも8〜10キロ内陸に打上げられた。最大級のタンカーが護岸に乗上げておる。内陸3〜4キロあたりには、遺体が入ったままの車が積上っている。300体ぐらいだろうか、手が付けられない。家族とは4日後に再会でき安心したら、電柱に引っかけていた左足の痛みが出て、骨折していたことが判明。

消防署の消防車も備蓄倉庫食料も流された。自宅はトイレと浴槽だけ残った。避難所暮らしは朝から8時間並んでおにぎり1個の状態。コンビニが開いてからも4〜5時間並んで肉まん1個。それを譲ってもらったり、子ども達も知らない人同士が思いやり助け合う経験をした。年寄り・子どもを優先。

大地震の前兆はあった。地震が頻発し、今までと違い、震えるような地鳴り地響きを伴う異常な感じ、縦揺れ横揺れがスパイラルのようになって来たので確信した。家族で対策を話し合い、役所の食料備蓄は4日分だが、阪神淡路大震災の経験で、個人的に7日分必要と思い妻に用意させた。3/9に災害伝言ダイヤルに登録した。子どもには必ず学校に逃げることを言い聞かせた結果、一人一人学校にたどり着き、屋上からヘリコプターで救出された。

昔から津波被害に遭い防災意識が高い地域なので、しょっちゅう訓練をしている。とにかく高台へ!という基本を守った人は助かっている。小学校は毎月1回避難訓練があり、保護者ひきとり訓練も2ヶ月に1回やっている。その成果〜中学生がもっとも活躍、自ら行動している。不思議なことに、総て流された浜辺に2・3カ所、林に祠・鳥居が残っている。華奢な木製なのに、鎮守の森?復活する証と思う。

忘れないで下さい。他人のことも考えられるようになってください。子ども達も募金を続けている。武蔵野に帰り、学校で友達に「もう3ヶ月経ったんだから終わりにしない?」との言葉にショック。全然終わっていないのに。人によって受け止め方がちがうが、16000人のいのちが失われ、震災孤児もたくさんいる。

12/11、年内最後の月命日なので、現地へ慰霊に行った。南三陸、陸前高田は跡形なく、瓦礫すら無い景色。今はまだ自分も家族もフラッシュバックなどPTSDに悩まされている。掴んでいた同僚の手を、耐えきれずにとうとう離してしまったという自責の念、生かされたという感謝の思いなど交錯する中、伝えて行かなければという使命感で、小学校の保護者会や各団体などでの講演活動を始めた。消防団での活動経験も生きた。

武蔵野では津波の心配は無いが、地盤が堅いと直接建物倒壊が危険。どうしても都心から優先に救助救援され、都下は手薄になる可能性が高いので自助・防衛が重要。

裕福な地域は特に犯罪に注意!女性子どもへの暴行、窃盗団の侵入は必ず起きる。報道されないが、3・11の3〜7日後には西の方から窃盗団がきて、略奪暴行が横行した。新潟〜山形経由の陸路で他府県ナンバー車。緊急物資運搬車に混じっているので分からない。凶器も持っているので自警団も役に立たない。女性子供は夜7時以降の外出は禁止した。ガソリン、家電量販店・ホームセンターから在庫を盗み出し、路上で売る。情報が欲しいので、盗品と知りつつTVなど買う人も居る。仙台荒浜地区〜空港〜名取沿岸にでは、指や手首、また頭部の無い遺体が65体位あった。水死して膨らんだ身体から貴金属を奪うため、遺体切断の残虐な行為も横行した。

<杉本孝司(すぎもと こうじ)さん> S.43年生まれ・吉祥寺北町在住 燃料系企業の安全防災対策会社勤務。H7.神戸に転勤、阪神淡路大震災で被災。5年前塩釜市に転勤。3・11東日本大震災で大津波に流され11時間後、海上自衛隊により救助され生還、その3時間後には救助活動を開始した。家族(妻・子ども2人)とは4日後に、無事再会し避難所で生活後、GWに帰京。現在はPTSDと闘いながらも、その希有な経験を武蔵野市内各所で講演、市民の防災意識向上に貢献中。武蔵野市消防団第4分団所属。